ごあいさつ 富山 信(とみやま まこと)牧師【主任担任教師】

はじめまして。私は丸の内教会の牧師 富山 信と申します。
自己紹介とともに、なぜ自分がキリストを信じるようになったかをお話ししたいと思います。
私の両親はキリスト教会の牧師でした。私は東京の上野で育ちました。
上野は、朝顔市やほおずき市など、お祭りの多い街。そして上野公園、博物館、美術館などもある、ちょっと素敵な街です。
男ばかりの6人兄弟の次男だった私は、少し繊細で真面目なところと、何事につけ笑いを取りに行きたいムードメーカーでもあり、牧師でなければ、ちょー売れっ子のお笑い芸人になっていたかも?しれません。小さい頃から、聖書を読むこと、お祈りをすることを教えられました。でも日本はキリスト教国ではありません。小学生の頃、一歩外に出ると、違う世界に思えて違和感を感じたのを記憶しています。
ところが中学3年の夏、ある出来事から不安を抱えるようになりました。自分がある病気なのではないかと信じ込むようになっていたのでした。実際は違っていたのですが。家族に相談し、医師に相談しても不安が無くなりません。父は牧師でしたから、「不安があるなら、神様にお祈りしてごらん」とアドバイスをしてくれました。
それから、私の神様を求める心の旅が始まったのです。私の家は教会でしたが、毎日三階にある小さな部屋に昇っていくと、暑いのに窓を開ける元気さえなく、祈り続けました。
(神様、どうか私の不安を取り除いて下さい)汗が頬を滴り落ちます。部屋はすでに40℃越えになっていましたが、神様は姿を現しては下さいませんでした。イエス・キリストの見慣れた絵を見つめながら、その口が動くのをただ待っていました。でもそれは起こりませんでした。
ある日のこと、聖書の詩編と言われるところを読んでいるうちに、ひとつの言葉が私に語りかけて来たのです。詩編55:23「あなたの重荷を神様に渡しなさい。神様はあなたのことを心配しておられる。神様は正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」その言葉と共に、それまで感じたことのない安らぎが心に訪れたのです。
イエス・キリストが私を愛して、私の代わりに十字架にかかり死なれたこと、そして復活し、今も共にいてくださることが分かりました。それまでも何回となく耳で聞いてきたこと、それは本当だったと心から信じる者へと変えられました。神様の愛の大きさがはっきりとわかったのです。
それからは、不安が来るたびに何度も祈り、すると心が安らかになりました。そして、ついに不安は完全に去って行きました。まさに、それは生きた経験でした。それ以後、牧師になることを願い、牧師の道を歩み続け、約40年ほどになります。大病を何度もしました。苦しみや悲しみを、味わい尽くしたといってよいほどです。辛い人生でもありました。
いまだ、一度も、肉眼で主イエスを見たことはありません。ですが、苦しい時こそ、聖書の言葉が支えとなり、主イエスが側近くにおられる事を感じます。そのようにして、神様は、荒波を乗り越えさせ続けて下さるのです。感謝です!神様は今も生きて、働き、お救い下さる方です。
2025年4月に、丸の内教会の牧師として招かれ、妻と息子、愛犬のココアと一緒に熊本県より赴任して参りました。
どうぞよろしくお願いいたします。
学歴
東京聖書学院、東京神学大学院 で学びました。
職歴
キリスト教会の牧師になり、40年。埼玉、北米、沖縄、熊本などで働いて参りました。
趣味
音楽を聴くこと、オーディオ・マニアです。ギターを弾き、フルートを吹きます。他に、花や風景の写真を撮り、フェイスブック上で、「神の美を写す」と言うグループを営んでいます。あまりに載せてませんが💦穏やかな会です。
※フレンドリーな牧師、神様を心から愛する牧師です。
どうぞ、安心して、教会⛪️にお出かけ下さい。
神様、主イエスは今日も、私を愛し、あなたを愛しておられます。
教会員挨拶

皆様、こんにちは。私は丸の内教会の教会員の福田俊男と申します。役員をさせていただいております。
私がなぜ、丸の内教会にくるようになったか、またなぜキリスト教の信仰を持つようになったかを書かせていただきたいと思います。
私が教会に来るようになったきっかけ、それは遡ると、わたしが小学校3、4年生の頃の話しになります。
私の母が家事の一切を投げ出して、引きこもった時がありました。
食事を一切口にせず、父や妹、私とも会話はしません。そんな中でみるみる痩せていき母の手は骨と皮ばかりになっていました。
そんな母を見て私や妹は泣いていました。
困った父が最後に頼ったのが、当時丸の内教会の主任教師をされていた尾鼻藤太郎牧師でした。家の不都合を外に知られるのを一番気にしていた父が尾鼻先生に相談したのは、とても思い詰めての事であったと思います。先生はある日夕方、私の家をお一人で訪ねてくださいました。
母は自分のベッドの布団にもぐり込んだまま、先生に会おうとはしませんでした。父が母を叱って布団から出そうとしましたが、先生はそのままにしてくださいと父を止めました。
先生は父や妹、私のことを、そして母のことを祈ってくださいました。その祈りの声は、母の耳にも届いたはずです。そして先生は帰っていかれました。
私はある意味少しがっかりしました。父が信仰する神様が母を助けてくれると思っていたからです。その夜も、母は食事を共にせず、布団の中でじっと引きこもったままでした。
しかし、次の朝、母が「おはよう」と父や妹、私に布団から出て挨拶したではありませんか。私は、先生の祈りの言葉を覚えていませんが、昨日の大きな先生の背中を思い返し、清らかな、真実な、絶大な力を感じました。
その時、父の信じる神様に、聖霊に、もう大丈夫だよと言われた記憶があります。今、思い起こせば私がクリスチャンの道に一歩進み出たのはこの時であったと思います。
高校卒業の春、洗礼を受け、今はクリスチャン同士、共に祈り、支え合う素晴らしい日々を送っています。
さあ、皆さんも門を叩いて見ませんか。
主イエス・キリストを共に賛美しましょう。
心からの感謝と喜びを込めて。アーメン。
私が教会に来たキッカケ

私が教会に来たきっかけについて、書いてみたいと思います。
私にとっての教会は、人生における羅針盤、困難な状況下においても支えとなる道標です。そして、教会の皆様は、信仰によって結ばれた大切な家族です。
教会との出会いは、高校のクラスメイトが東京の上野にある教会に通っていたことからです。私を誘ってくれ、クリスマス礼拝では、バンドの演奏会や信仰告白を聴かせ頂きました。
結婚後、夫の家族との同居において、自分の価値観を合わせることに疲弊していたころ、偶然、仕事帰りに丸の内教会と出会いました。その後、礼拝に参加するも、夫の反対により一時的に教会から離れました。
しかし、その後また教会に繋がることになりました。その時、私にとっての教会の大切さを痛感しました。
ある時、洗礼についてのお知らせがありました。でも私は「私が洗礼を受ける資格があるのだろうか?」と悩んだ時期もありました。
それを解決したのは、当時、勤務していた職場での入院患者様の言葉でした。
その方がクリスチャンで「神様は、今のままのあなたがいいの。無理することないの。」といってくれました。その言葉に推されて、受洗を受ける決心をしました。
夫が障害や病気を患ったことを機に、再び教会との繋がりを持ち、信仰講座で学び洗礼にあずかりました。夫もまた、逝去の2週間前に自ら病床洗礼を希望し、安らかに旅立ちました。
息子は幼少期から教会学校に通い、中学校時代には信仰講座を受講しておりましたが、高校進学後、日曜日の登校日と重なり、教会から遠ざかっておりました。
しかし、最近自ら信仰講座を希望し、洗礼に向けて準備を進めております。
血縁関係や義務、責任といった従来の家族観にとらわれることなく、教会との出会いを通じて、家族に新たな絆が生まれ、深く感謝しております。

私が教会に来るようになったきっかけを、書いてみたいと思います。私は今から40年以上前、 1981年に娘と一緒に丸の内教会で洗礼を受けました。
振り返れば、本当に多くのことが思い出されます。私の若い頃も、今と同じように様々な宗教が周りには溢れていたものです。
私の母はクリスチャンでした。 昔、母が言ったある言葉が心にとまり、その言葉の意味を何度も尋ねたのを覚えています。
「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようという のではなく、 平安を与えようとするもの。」
母は黙っていましたが、今思うとそれは聖書の言葉だったのだとわかります。
けれども、私の人生は平安というより、 苦しい事の方が多くありました。
幼くして養女にならなければいけなかった事、 その養母も亡くなり、 叔母の元へ移った事など。
私の主人は魚の仲買卸業をしていました。 海の近くで暮らし、ふと海を眺めて不思議になる事がありました。 水は川から海へと絶え間なく流れてくるのに、なぜ溢れないのだろう。私は自分を超えた誰かを探していたのかもしれません。
その答えはずっと後になってからわかるのですが。
ある日主人が青い顔をして、仕事から戻りました。驚き病院へ行きましたら、胃癌で余命3ヶ月と診断されたのでした。私の母は牧師と一緒に病院にかけつけて、お祈りしてくれました。
その1ヶ月後、一時退院し自宅に戻ってきました。そして、家族そろって旅行しました。
今迄主人は、仕事が忙しく、家族と旅行に行くなど全く無かったのですが、最後の家族への贈り物として大切な時間をとってくれたのだと思います。
けれども、やがて再入院になります。大変な苦しみの中で、母が背中をさすったり、祈ったりすると、その都度不思議なように痛みがやわらぎ、気持も落ちついていきました。主人は始め、母の信仰を、あれはアメリカの宗教だ、信じてはならんぞと言っていました。
でも後に「お母さんを呼んで祈って欲しい」と言うようになったのです。
昭和48年11月の夜明け、主人は余り苦しむことなく、天に召されていきました。
当時、私は44歳でした。それからはただただ一生懸命に働きました。
私の職場だった休暇村には、色々なキリスト教会の人々がやってきて、集会を開き賛美していました。私は看板に書かれた聖書の言葉を読んでみたり、海で行ってる洗礼式に見惚れて、遠くから見てたものです。
ある時、初めて買った白黒テレビで、ドラマを見ていたのです。
「川はみな、海に流れ入る。 しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。」
という言葉が映りました。 それは私が昔、海を眺めながら思っていた事と同じでした。そしてそれが聖書の言葉だと気がつきました。
母は私に丸の内教会へ行く事を勧めてくれました。けれどもまだ当時は、行きたいと思いながらも、仕事が忙しく教会へは行けずにいました。
きっと母は、私のために一生懸命神様にお祈りしてくれていた事でしょう。 その後、一緒に暮らしていた主人の母が、 半身不随で寝たきりになってしまいました。 試練は続き、娘までが病に倒れ伏し、 私にとって本当に辛い時期でした。 2人の介護と仕事に明け暮れる中で、私は少しずつ教会へと通い始めました。
娘も体調のいい時は、教会へ行くようになり、 尾鼻先生より母娘一緒に洗礼を授けていただいたのです。
その後も様々なところを通りました。 でも神様は私を支えてくださり、 11年間におよぶ義母の介護をする力を与えてくださいました。 義母はとても厳しい人でしたが、最後の顔は笑っているような安らかな顔だったのです。 今までこんなに可愛い義母の顔を見たことのなかった私は、泣きました。 その時、 神様は私の側にいて慰めてくださいました。
私は気がつくと歌っていました。
「試みの時も病む日にも死ぬ間際にも側にいまして 力ある腕を 我にのべ優しく言たもう いと安かれと ああ我ため命をも捨てましし友は主なる君のみ」
そしてその後、最も悲しいことが起きます。 入退院を繰り返しながらも、 一緒に教会へ通っていた娘までもが、 私よりも先に天に帰っていったのでした。
その激しい試練のなかにいる私を、 丸の内教会の牧師先生方や教会の皆さんがいつも一緒にいて支えてくれました。
なによりも神様はいつも私を導き、助け、支えてくださいました。 だから、 私は今が一番幸せなのです。
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、 平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望 を与えようとするものである。」 エレミア書 29 章 11 節
(T.Kさん 90代女性)
